白く差し込む陽光に、目を開けた。
気だるい感覚。充分に眠ったとは言えないが、見れば陽の昇りは正午に近いものと思えた。
むくりと半身を起こせば、外出から戻った時のままの装束が妙に重いものに感じられる。
着替えをしながら、ふと、夜明け前にここへ戻った時はいささか強い風が吹き荒れていたことを思い出す。
今は、それももう落ち着いただろうか。

窓を開けると、そこには見慣れた白の都がいつもと変わらずに在った。
雲に遮られながらも街に落ちる太陽の光、そしてほんの僅かに届く、ペレンノール野の土や草の香り。
それを届ける風は穏やかなものに変わっていて、何処か季節の変わり目を思わせた。
初夏と呼ばれる時期に入ったのだと、今になって思い至る。
……子供の頃は、季節の移り変わりを今よりかは鋭敏に感じ取っていたように思う。
しかし最近では、ゆっくりとそのようなものに目を向ける機会も、ひどく少なくなってしまった。

寝起きの頭でとりとめもなくそんなことを思い巡らせていると、何かが聴こえるのに気付く。
特徴のある旋律は、人が歌と呼ぶものだろう。
私は今までさほど音楽に触れてはこなかったが、それでもそれが、この国で耳にするものではないとすぐにわかった。
どう表現するべきかはわからぬが、少なくとも私には、少々思い付かないような節である。
不思議でいて、しかし、耳心地は決して悪くない。

階下を見下ろすと、視界に入るのは黒い髪の娘にファラミアの姿だ。
思った通り、先程からの歌声はのものであるようだった。
なるほど、ゴンドールでこれまで聴かれることのなかった旋律のはずだ。おそらく、彼女の元居た場所での曲なのだろう。
そう思いながら、そのまま目を閉じてふと考える。
このような歌の流れるその故郷とは、一体どんな国なのだろうか。
伏せた目蓋の裏で想像を巡らせる。当然のことだが、何一つ具体的なものは浮かばない。
けれどが聞かせてくれた話を思い返せば、きっとそれは穏やかな国なのだろうと思えた。
再び目を開いた眼下では、静かに彼女の歌に耳を澄ませている弟と、控え目ながらも風に声を乗せるがとても楽しげにしているように見えた。
……あのように柔らかな表情をするファラミアは、ここしばらく見ていなかったような気がする。
最後に見たそれは、いつのものだっただろうか。
やがてその歌が終わり、弟が喝采を彼女に送る。それに乗じて私からも拍手をすると、驚いたようにがこちらを振り仰ぐ。
「ぎゃっ」という、あまり他の者には聞かせられないような声を彼女は上げた。

「ボ、ボロミアさんっ、いつからそこにっ」
「つい先程から」

その反応が何だか面白くて、ついつい笑いを漏らしてしまう。
良い歌だった、と思ったままを告げると、しかし彼女の方は両手で顔を覆って大げさに叫んでみせた。

「ボロミアさんに聴かれてただなんて! わーもう恥ずかしい!!」
「なんだ、ファラミアには聴かせていたではないか」
「だって、ファラミアさんだけだと思ってたんですもん!」

そう言って頬を膨らませたかと思うと、再び顔を覆い隠してしまう。
想定していた以外の人物に聴かれていたというのが、にとっての「恥ずかしい」に当たるようだった。
そんな彼女の様子を間近にして、ファラミアは声も立てずに笑って見ている。
――ひどく、平和なことだった。殊に、この暗い時勢にあっては。
私はもう一度小さく微笑むと、階下に向かって言った。

「すまん。耳にしたことのない不思議な歌だったので、つい聴き入ってしまった」
「……兄も悪気はなかったのだ、
「こ、今度からは、ちゃんと心構えをさせて頂けると助かります……」

未だに顔に両手を残しながらそんなことを口にしている。それ程恥ずかしがることでもないだろうに。
思うが、そんなや弟の穏やかな顔をもう少し見ていたいとも思った。

「では、次からはそうするとしよう」
「はい、お願いします……」
「さて、では」
「…………はい?」
「今からそちらに下りる、二曲目の準備をしていてくれ」
「え? ……ええーっ、次って今ですか!?」
「そうだとも」

ファラミアにだけ歌を披露しておいて、私だけ除け者などつまらぬからな。
そう揶揄かうように続ければ、言葉に詰まったように彼女は呻いた。
堪えきれずに笑いを漏らした弟が、を諭すように何事かを小さく呟きかけている。
困ったように、けれど同時に何処か楽しげに、がこちらを見上げてくる。
彼女のその顔に掛かる黒髪が、白い光の元に揺れていた。
このような時間が、これからも訪れればよいと思う。
そう、季節が巡り、時間が流れて新たな年を迎え、次なる初夏を迎えた時も。
そんな願いにさえ似た思いを抱きながら、二人の元へ向かうため私は部屋を後にした。
開け放したままの窓から流れ込む風がひどく心地よく、後ろ背を押してくれているかのようだった。




何日かが過ぎていった。
決して穏やかな日々とは言い難かったが、それでもまだ親しい者たちとの時間が持てる分恵まれていると言えるのかもしれぬ。
ミナス・ティリスに戻る都度、私はの様子を見るようにしていた。
この遠い地よりの客人は、私が姿を見せる度に無事を安堵してくれている。
――素性の知れない身である。自分がどのようにしてこの地を訪れたのかもわからぬという。
しかしそれにも拘わらず、私は彼女に対していつしか、警戒心をほとんど持たぬようになった。
敵対する彼の者たちの間者であるなら、このように目立つ風貌である筈がない。
書き出す文字も紡ぐその歌も我らの解するものとは異なり、そして彼女は戦を知らぬという。
明らかには、我らとは遠く離れた存在である。
何故そんな彼女がこの地に突然現れたのか、それだけは解せなかったが、しかしにも判らぬとなれば致し方ない。
故に、私は彼女を庇護のもとに置くことにした。
その帰路が、いつか見つかればよいと思う。
そう、できることなら、早いうちに。万が一にも戦火の火の粉が、その身に降りかかるその前に。
平和だというその故郷に、その身を送り出してやることができれば。
この不思議な客人が、在るべき場所に還ることができればと。

「……何を作っているのだ、?」
「さあ、何でしょう」

悪戯っぽく彼女が笑んだ。
テーブルの上には何枚かの紙、そしてあまり見慣れない細工のものが幾つか並んでいた。
がその手の中にあるものに口を近付け、息を吹き込む。
何故かほんの一瞬、それが命を吹き込んでいるかのように見えた。

「はい、でき上がりです」

にこにこしてそれを差し出すので、こちらも手を伸ばそうとする。
次の瞬間、は両手でそれを中空に放ったので慌てて私はそれを受け止めた。
見れば、彼女は悪びれもせずに笑って小さく拍手している。

「わあ、ナイスキャッチ! 流石ボロミアさん」
「急に放り投げるな、驚くだろう」

言いながら、受け止めたそれを改めて見る。
どうやら紙細工であるらしいそれは、私が手に取った際に少し潰してしまったようで、形がいびつになってしまっていた。
聞けば、紙風船、だという。
先程ののように息を吹き込み整えれば、元に戻るのだとか。
これ以上壊さぬよう恐る恐る彼女の真似をして息を入れると確かに、それは元の形に戻っていた。

「……不思議な紙細工ばかりだが、全て、が作ったのか」
「不思議ですか? ただの折り紙ですよ」
「そうは言うが、器用なものだ。私には作れそうにない。ファラミアなら直ぐに会得できるかもしれないが」
「そうですねえ」

ファラミアさんなら、そうかもしれませんけど。
私には作れないというのを否定するわけでもなく、あっさりとそんな返答をする。
内心苦笑いしていると、でも、と彼女は続ける。

「作れたからって、何かの役に立つわけでもないですし」
「さて、そうとも言い切れぬ。現に私は少々驚かされた、一枚の紙がこのように変わるとは」
「……ボロミアさんに少しでも楽しんで頂けたなら、嬉しいですね」

は微笑んで、手際良く、しかし丁寧に次の紙を折り始める。
小さく混じる鼻歌は、先日聴いた旋律とはまた別の、初めて耳にするものだ。
彼女はその身の中に、あとどれだけ私の知らぬ小さな魔法を隠し持っているのだろうか。
ふと、手の中のものに目を落としながら、自分が笑んでいることに気付く。
この歳になって、子供が玩具を与えられて笑みをこぼすようにこうして笑うことがあろうとは。


「はい?」
「もし良ければ、もらってもいいだろうか。私と、……それからファラミアの分も」
「こんなんで宜しければ、いくらでもどうぞ」

そう言って、は幾つかの紙細工を両手に載せて差し出してくれる。
彼女の平穏は、あたたかかった。
私だけでなく、それはきっとファラミアにとってもそうなのだろうと思えた。彼女といる時のあれは、柔らかな表情をしていた。
そうした時間が、弟にとってどれだけ救いになっていることか。
父と心が通わずにいながら、それでも何も言うことなく父に従い、ファラミアは戦い続けている。
私はその間にいながら、どうすることも叶わないでいた。
私は愛する者たちのことを考えた。それは我が民であり、自分を支えてくれている者全てであり、そして家族達であった。
私はのことを考えた。遠い存在のはずであるにも拘わらず、今はそのように感じられることはなかった。
私は彼女のその手から、 『 花のおりがみ 』 だというそれを受け取る。
淡色の紙でできたそれは、あたたかな温度の中で芽吹く野の花に確かに似ていた。






▲NOVEL TOP      NEXT→